振り返り 中1-3
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塾をやめたので公立の中学校に進みました。田舎ですので適度に荒れています。荒れるのを防止するために、全員が強制的に部活動に加入させられます。私は小学校時代に運動に劣等感を持ったので、文化部しか居場所はないだろうと考えていました。そして吹奏楽部に入りました。
中学の部活動というのは拘束時間が長いものです。3年間ほとんど部活動しかしてなかったんじゃないかといっても過言ではありません。特に夏休み。ほぼ休みなしで毎日8:30~17:00くらいまで酷暑の中練習するなんて尋常じゃないです。何人か脱落者も出ましたが数人にとどまります。あの環境を生き抜いた人間は大体なんでも耐えられるんじゃないかと回想しますが、高校に入った私の気力が急速にしぼんだことを考えると燃え尽きた人間の方が多そうです。なんでもスパルタすりゃいいってもんじゃありません。
吹奏楽部では同学年の男子が自分を含めて3人しかおらず、仲良くなりました。そのうちの1人とは今でも連絡が奇跡的に続いています。
もう1人の男子とはよく遊びました。しかし小学校のときと同様、劣等感を抱くことが大きくなりました。中学生と言えば第二次性徴、色ボケの始まる時期です。彼はよくモテました。部屋に後輩のダレを連れ込んだだの何度かそのような話を男子陣でこそこそしていましたが、羨ましいものだと思っていたものです。
私はADHDもおさまってきて積極奇異からシゾイド系に移行する途中でしたので、いわゆるオタク趣味を持ち始めた頃でした。WIndows95, 98やパソコン通信、インターネットが出現しPCが一般家庭に浸透する時代、私の家にもPC98という機種がやってきました。私は小金持ちの祖父からもらったお年玉を何年分か貯めてMIDI音源(SC-88)を手に入れていましたので、niftyやインターネットからMIDIデータをダウンロードしまくったり、自分で耳コピする作業を行ったり、そんなことばかりやっていました。中2--3の頃になるとインターネットが普及し、いかがわしいソフトを手に入れられるようになりました。そう、LeafやらKeyやらで一躍有名になったエロゲーです。あそこに没入すると「3次元はクソ」と豪語できる境地に移動することができるようになります。
こんなものにハマっていても現実の学校生活にはモテ人間が存在します。のでどれだけ「3次元はクソ」と思っていても、彼らには劣等感を抱くものです。そして、経験上田舎で文化がない地域ほどモテが人間の尺度となる強度が高い。他に娯楽が無いからです。学校というのは残酷なものです。たいてい中学生の時期に培われた価値観は、そのまま高校~大学~長い人は社会人になってからも継続され、どんどん強度が増していくことでしょう。
田舎はすごいですよ。身の回りに「先輩の家でエッチした」「夕方薄暗い自転車置き場でやった」「体育倉庫の跳び箱の上でやった」などなどの武勇伝がそこら辺を飛び交ってました。主人公はみんな同じ部活の人ですので生々しい。
私はこの頃、モテ話の外側にいると自分を勝手に既定していました。中学の頃となると、生まれつきの体の不器用さがだんだん尖鋭化してきていて、楽器を上手く扱えず一人だけメンバーを外されることもありました。また、演奏に表情を付けることがどうしてもできなかった。これは今考えると、自閉症スペクトラムと大きく関係していたと思います。どうしても演奏が平板になる。指だけは回る。例のモテ男君と比べるとその劣等感は大きく、加えてやせ形で自己評価は低め、ランニング中に隣の高校生に「のび太が走っている」とからかわれたこともありました。ですので私は勝手に「外側」にいると自分を決めていました。防衛機制の一つだったのかもしれません。
一度だけ転機がありました。ある女の子がラブレターを渡しに来るという事件があったのです。しかしそれは後ろで女子数名が面白がりながら見守っており、そもそも呼びに来たのが本人ではなく別の女子でした。私はこれを公開処刑だと考えました。後ろでゲラゲラしている人間に耐えられない。屈辱でした。そしてラブレターをごみ箱に捨ててしまいました。今考えると直接渡しに来る勇気を持てず他の女子に伝言せざるを得なかった本人の気持ちはズタズタだったろうなと思いますが、当時の私にはそんなことを考える回路が存在していませんでした。自分を「外側」と規定していたこともあったのかなと思います。
中学では小学校のときに通った塾と同一系列の塾に入らされました。今度はさすがに、塾に行く意味は分かっていました。地域トップの公立校を狙えということでした。
しかし中学には「内申書」というクソのような制度があります。私は内申書の点数が極めて悪かった。なぜかというと、宿題を提出できなかったからです。塾のように時間的に強制されるならともかく、学習を自主的にやれと言われるくせにペースが他人から与えられるというのは苦痛でした。予定を立てられないという性質もありました。そして、他人の宿題を写したり答えを写したりするのも、みんなやってるのに、自分にはどうしてもできませんでした。正義感というものではありません。不合理なこだわりのようなものだったと考えています。そして、宿題をやらないまま夜が来ると自己評価が下がり、それから逃避するためにパソコンに向かって夜更かしし、そのまま宿題はできず深夜となり力尽きて眠る。なにもしないで内申点だけが下がっていきました。主要5教科で5段階の最大評価がついた科目は、一つもありませんでした。
これは現在の高校入試でも変わらないのですが、難関校ほど内申書を重視しません。私が受験した高校は内申書の点数配分が1割だったそうです。なのであっけなく合格しました。教師には「なんでお前が」と言われました。こうして高校進学後に、また転機を迎えることになります。中学までに基盤が作られ、高校で大きく方向性が変わりました。また来週に続きを書きます。
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