振り返り 借金生活~引越生活
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お金が無くなったのでキャッシングで生きることにしました。Kはバブル期に大量に作ることができたキャッシングカードを持っていました。私はプログラマーのバイトの口を見つけ、収入が増えました。しかし大学はあきらめられず、次の学期も授業料免除を申請して通いました。やはり単位は楽勝で取れました。ふつうならキャッシングなどせず働くべきだったとは思います。ここで大学に固執してどうする。
生活にはカネがかかるもので、1年間で借金は300万円近くまで膨れ上がりました。私が以前バイトしていた法律事務所は破産専門の事務所で、そこでの経験から破産はちょろいことが分かっていました。書類は定型文にちょいと文章を入れるだけ、弁護士は下働きが作った書類を週に1回裁判所に抱えて持っていくだけです。破産開始通知者が債権者に渡ると弁護士パワーが伝わり債権者は訴訟を一瞬で取り下げます。弁護士はヒマなのかスケジュールに「キックボクシング」などと堂々と入っていました。
お前らのことです。
私はバイトをやめる前に書類をコピーしてきていたので、これと書籍を参考にして完璧な破産書類を作り、印紙代だけで借金をチャラにすることができました。
もう潮時だと思って大学を辞め、バイトに専念することにしました。給料も上がり、3人家族なら十分暮らしていけるだけのカネを稼ぐことができるようになりました。今でも勤務先は同じです。
βが生まれました。私は家事がまともにできないので、産後一週間もせずに退院したKが授乳からオムツ替え、家事まですべて行いました。私ができるのは食器洗いくらいでした。出産祝い金は破産でカバーの出来ない保険料の未払い分に全額消えました。
親からは嫌がらせがひどいので、引っ越しました。具体的には、東京まで出てきて家の前で大声を上げられたり、手紙が頻繁に来たり、Kの悪口を書いたビラを撒いたりされました。引っ越し資金を借りようとまだ問題になっていない振り込め詐欺の被害にも会いました。荷物が多く初期費用も掛かるファミリーの引っ越しには100万円ほどかかります。しかし私が選んだ物件は失敗で、また引っ越しました。この頃から私は引っ越しのために働くような生活をつづけることとなりました。必要な金が増えたので、労働時間を増やしました。
音ゲーは未だに中毒状態から脱しておらず、主にDDRの腕前が上がる一方でした。音ゲーはキャッシング生活時も続けていました。借金してもパチンコがやめられない人間の心理と同じだと思います。
私とKはよくケンカしました。喧嘩と言っても、私が一方的に怒鳴られました。Kは家庭の事情もあり理路整然と相手を叩きのめす能力に優れており、かたや私はケンカの経験はゼロ、一方的に言葉で殴りつけられるだけです。しかも全てが正しいので言い返す余地もありません。原因はキチガイの親を放置したことや、私が過去に家族や他の女の自慢をしたことですので自業自得です。私にできることといったら、否定されることの怒りを相手にぶつけることもできないので自分を殴りつけたり、電気ポットで自分の頭を殴って壊してみたり、支離滅裂に逆ギレしたりすることだけでした。私は他人の気持ちを読む、すなわち相手が何をしてほしいか、どんな言葉をかけてほしいか全く予想ができない人間でしたので、必ず期待と異なる返事や反応をしてしまい、Kが怒ります。そんなことが10年以上も続きました。私は濃密なコミュニケーションの経験が無かった(不可能だったのかもしれません)ので、言語的能力と精神的発達が遅れており、彼女に大人の対応をすることはできませんでした。自分を殺し、自分の意見を言わず、Kが言うとおりに生きる以外の選択肢はありませんでした。
2年後にγが生まれました。このころ、NHKでアスペルガー障害の特集を放送していたので試聴してみると、話し方や言葉から染み出る自意識が自分にそっくりであると感じました。しかし家族はだれも気付かなかったそうです。この番組ではじめて自閉症やアスペルガー症候群について知りました。当てはめてみると、まんま私です。医者にかかったら何の疑いもなく診断がおりました。
すぐに近隣住民とタバコの煙で揉め、引っ越すこととなりました。引っ越し先は多摩ニュータウン。次の記事を書いた頃です。
年末に親から手紙が来ました。弁護士と親の特権を使って住民票を調べたそうです。「どこにいても見つけてやる」と脅迫まがいの文章でした。何年たってもキチガイは変わりません。私はやむなく、実家に行って今度こそ息の根を止めてくる役目を負うこととなりました。
続きます。