主客の一致
三木清 - 哲学入門
http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/card43023.html
数年ぶりに2回目で読み始めた。1回目はわけわかめだったな。以下、私の理解なので、原著とは飛躍がある可能性がある。
序盤、主観的なものと客観的なものの統一について述べている。この統一って、日常全然できなくて困っていることの一つだ。もう少し後に知性も道具(言葉や概念)を使っているという個所が出てくる。道具は客観的なものなので、主観的なもの(わたし)とは距離がある。しかし主観的なわたしは客観的な道具を使って何かをせざるを得ない。道具がなければそもそも何もできない。この日記だって文字を使わなければ書けない。自分の内側でうにょんうにょんと蠢く主観的な「何か」は道具を使ってはじめて表現できる。
しかし主観を客観に写し取るいわば翻訳の過程に必ず誤差が生じる。自分の思ったこと、考えたことを逐一正確な言葉で表現するのはなんて難しいんだ!といつも思う。さらに逆の過程として、書いた言葉に自分の思考も制限される。書いてしまったものは自分の内側にはない、外側にあるものなので、自分が考えたこととは別のものだ。別のものであるからこそ、そこからまた自分も影響を受ける。
人間なら必ず主客が統一されてるような筆致で書かれてるように見える(言及はされてないか?)けど、これ、とーっても難しい。言葉とわたしはまったく別のものなのだもの。そして、他人がうけとるものはわたしではなく、言葉なのだ。他人にはわたしではないものしか見えない。だから言葉を、道具を限りなくわたしと一致させなければならない。いや他人のためだけではない。自分のためにも一致させなければ、知性を成り立たせる前提が危うくなる。考えているようで、実は考えていないなんてことが起こりうる。想像すると恐ろしいが、言葉を媒介にしないと思考できないのだから、主客が一致しているかどうか、自分には非常に分かりずらい。
この考え方は必ず芸術につながっていくだろう。自分が想像しているままの絵を描きたい。思った通りの音を出したい。誰もが考えることではないかと思う。しかし想像を絶するような鍛錬が必要なことも、誰もが想像できるだろう。じゃあ一致することなんて永遠にないんじゃないか。でも近づきたい。ならば訓練だ。
ちっぽけな自分自身にすら近づくことが難しい現状を変えるために、書いたり、描いたり、考えたり、音を出したり、どこまでも終わりのない道の向こう側に静かにうんざりしつつも歩くのをやめないで一生を終えたい。