六帖のかたすみ

DVを受けていた男性。家を脱出して二周目の人生を生きています。自閉症スペクトラム(受動型)です。http://rokujo.org/ に引っ越しました。

インプット偏重の危険性、アウトプットの重要性、フィードバックとソーシャルによる連鎖反応の可能性

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私は昔からインプット偏重で生きてきました。そのために多くの弊害を被りました。もっと早くに気づいておくべきだったアウトプット、フィードバックの重要性について書いていきたいと思います。

インプット

インプットとはいわゆるお勉強です。ものを読み、理解し、暗記します。インプットがなければ何もできないため、それ自体は必要不可欠です。例えば教科書を読まなければあなたの定期試験の成績は目も当てられなくなります。それだけではなく、詰め込んだ知識がなければ議論はできません。単語を知らなければ外国語で書かれた文章を読めません。インプットはすべての行動のバックグラウンド、前提となります。インプットは多ければ多いほど好ましいです。

インプットの落とし穴

ところがインプットには落とし穴があります。インプットは一方通行です。情報は外側からあなたの内側の方向に流れていきます。しかし、本当に流れているのでしょうか?

インプットの欠点は、あなたが本当にそれを理解しているのかどうか誰にもわからないということです。本人にさえわかりません。難しい本を最後まで読み通して分かった気になり満足感に浸っていませんか?中学高校時代、テスト前に「俺は昨日8時間も勉強したぜ!」と言っていたのにテストの点数が異様に低い人を見たことがありませんか?「俺は1000冊本を読んだんだぜ!」と公言しているのに客観的に見てアホな芸能人がいませんか?

インプットの量はあなたの思考の明晰さと必ずしも比例しません。矢印が一方向だけを向いているというのは不健全です。インプットのみでは独善的になる可能性が高いといえます。

さらにもう1点。インプットしたことは必ず忘れます。時間がたてばたつほど忘れます。これは宿命です。すべてを覚えていられる人間はいません。

アウトプット

そこでアウトプットの登場です。アウトプットとは文章を書いたり、物を作ったり、他人と会話したりテストを受けたりすることです。情報は内側から外側へ出る矢印に沿って出ていきます。

アウトプットの創作性

アウトプットは全て創作的です。インプットの段階で蓄積された知識・情報を概念化し、肉付けし、形式はどうあれ一つのもの・作品に仕上げていく行為です。何気ない私たちの会話一つ一つも全てが創作的です。

アウトプットをするためには、インプットしたものへの理解が必要です。理解していないものをアウトプットすることはできません。無理やりアウトプットしても支離滅裂なものが出来上がるだけです。

例えば文章を書いていると、しばしば理解が曖昧なことに気が付くものです。書きながら「本当にそうだっけ?」と感じたときは、文献を調べ直したり、最後の手段・ネット検索に頼ったりして、自分の理解の足りなさを補強しながら書いていきます。この過程で、インプットが定着していきます。文章を書くことでぼんやりしていた理解に一本の道が付き、思考は明快になります。書くことで知識は反復され、インプットのさらなる定着にも役立ちます。

フィードバック

アウトプットをもってしてもまだ不十分です。文献やメディアやネットからのインプットにより自分への矢印が描かれ、アウトプットにより自分から外側への矢印が描かれますが、このままではせっかく連続した矢印が空中に雲散霧消してしまいます。アウトプットも一方通行ですから、独善的になる危険性を孕んています。

そこでフィードバックが必要です。フィードバックとは、アウトプットに対して外側から何らかの反応があることです。例えば、会話はフィードバックの仕組みを内包しています。わたしが話せば相手が返答します。他にもテストを受ければ評価が返ってきます。文章を書けば反響があります(ただし読者が多い場合に限る)。

あなたの理解が間違っていればフィードバックにより批判がなされます。コメント欄や2chで叩かれ友や家族に欠点を指摘されます。フィードバックはあなたの知識や思考の正確性、蓋然性、妥当性や面白さ、独創性などのテストの役割を果たします。

フィードバックによりアウトプットの矢印が自分に戻ってきて、新たなインプットを得ることができます。それは好意的な意見であったり辛辣な批評であったり0点のテストだったりするでしょう。どんな反応であれ、自分が形にしたことを相手がインプットし、さらにアウトプットを創作して返してくれるわけです。一種の回路のようなものがそこに創られ、回転しながらより大きな創作へと繋がっていきます。

個人的な経験

自分の話を挟みます。私はアウトプットをほとんどしないで過ごしてきました。例えば授業で発表をしません。質問をしません。本を読んでも感想を書きません。そもそも宿題の読書感想文に何も書けません。その結果、インプットしたものはなにも残らずすべて消え去ってしまいました。妥当性も正確性も何も保障されないまま自己満足的な達成感だけが残り、空っぽな自己だけが残ってしまったのです。

インプットやアウトプットの例として勉強を出しましたが、私は受験勉強はある程度やりました。しかし受験勉強というのは、インプットの割にアウトプットとフィードバックが非常に小さいシステムです。決められた位置のマークを塗ったり、枠内に記号を書くと点数が返ってくる。それ以上のことはありません。知識の妥当性も思考の深さも実はほとんど問われません。書いてある答えが合っていればよいだけですから。いきおい、私の試験対策は問題の決まった手順をなぞることにとどまり、本質から外れていきました。

そして大学に入った後大きく挫折しました。授業で何を言っているのか全く分からないのです。いままで分かったつもりになっていたのに、何も分かっていなかったことが露呈されてきます。試験日程は理解を待ってくれません。私は落第ののち、大学を中退しました。

アウトプットを始める

それから10年ほどたって、オフラインで日記を付けるようにしました。はじめは何も書けませんでした。書くことを知らなかったからです。文章を組み立てる能力がなく、概念や単語が独立して宙に浮いたまま結合しなかったからです。読書感想文を書けなかった小学生時代と同じです。書くとすぐに話題が尽きてしまい、書けなくなって何日か経つとまた少し書く、ということを続けていました。

次に、読んだもの・聞いたものを題材にするようにしました。題材が存在すれば自分の中にわずかながらも反応がありますから、それを書き留めることができます。なんとか、毎日書けるようになりました。去年、手違いでオフラインの日記がすべて消失しました。しばし呆然としました。

日記が消えた - 六帖のかたすみ

大昔にアカウントを取って放りっぱなしだったはてなダイアリーを見つけ、オンラインなら消えないだろう、と思って書き始めました。このころの日記は分量が短く、しかも他人に伝えるつもりが全くありません。アウトプットはフィードバックのためのものであるという思想を持っていれば、もう少しまともな書き方があったはずです。しかし書くという行為を続けていられたことは幸いだったと思っています。400字の原稿用紙を埋められなかった自分が、いつのまにか4000字超の文章を書けるようになりました。

ソーシャル化によるフィードバック連鎖反応

インターネットはソーシャル時代に突入し、一昔前の静的HTML(ホームページと読ん でいました)で一方的なアウトプットをする時代ではなくなりました。ブログ、twitterfacebookは洗練されたフィードバックの仕組みを取り入れています。面白い文章を書けば人気記事として取り上げられたり大量のRTをされたり、togetterやまとめブログで批評されたりします。

はてなブログには、アクセス解析に表示されるPV、はてなスター、人気記事、コメント、はてなブックマーク、などなど様々な報酬系が完備されています。 これらがアウトプットを促し、ひいてはフィードバックを促して強力な連鎖反応を引き起こす可能性を秘めています。しかしそれは記事が読まれ、ユーザーがレスポンスを送りあって初めて形成されるものです。読まれない記事からは反応が起きません。

せっかくはてなブログに移行したので、フィードバックの仕組みを最大限に生かしたいものです。アウトプットを検証し、批評する外部のプロセスを通して思考や精神は健全になります。独善的、一方通行的になることを免れ、さらなる昇華と発展への道が開けます。そのためには、読まれる記事を書けるようにならないといけません。。

ここまで書いて、私は優れた記事にスターを付けたり、コメントを付けたりしたことが一度もないことに気が付きました。今日からは違う自分になろう。

参考文献

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 一昔前のベストセラーです。日本人はアウトプットしない、としきりに言っているのはこの人。

 

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

 

日本人の学者は哲学を知っているが哲学しない。インプットしかしない人間への批判がこもっています。

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 

フッサール現象学の解説が今でも印象に残っています。現象学とは根拠を様々な人間の主観に照らした「妥当性」に求める学問です。妥当性はまさにインプット→アウトプット→フィードバックの流れで明らかになるものです。フッサールの本はいずれ読んでみたいと思っています。